太平洋戦争末期の沖縄戦で、首里城をはじめとする歴史的建造物や様々な施設、個々の民家は灰燼と帰し、終戦時の1945年には県内の建築物の9割以上が失われてしまいました。沖縄の戦後は、人々の住む家や社会インフラのほぼ全てをつくり直すところから始まります。現代の私たちから見ると途方も無いことですが、先輩たちは荒廃した沖縄を立て直すため、米軍の占領下の中を歩み始めます。戦前からの建設会社の他に新たな企業も立ち上がり、物資の乏しい中、廃棄された戦車などの残骸から部品を集め、ダンプカーやブルドーザーなどの重機を組み立て、道を作り橋を掛け、住宅や商店、学校や病院、そして新たな産業に必要な工場を建てていくのです。そんな戦後沖縄の黎明期、1949年に南洋土建は創業しました。当時の建設業界には復興に向けた情熱と、自分たちで新しい沖縄を築いていくのだという気概があったに違いありません。以後、南洋土建も沖縄の様々な土木建築工事で、沖縄の復興に貢献していきます。

 戦後の復興期から、沖縄が経済的に発展していく1960年から70年にかけて、南洋土建でも多くの大型案件に携わりました。上の写真にあるガーブ川改修工事もそのひとつです。

 現在、那覇市の国際通りを横切る暗渠として、静かに流れるガーブ川。当時は川沿いの土手にバラック店舗が連なり、商売をする人々が集まる場所であったのですが、台風時期には度々洪水を起こし人々を悩ませていたのです。そこで、那覇市の都市再開発事業の目玉として、川の上に蓋をして水害を防ぎ、その上に建物を建てて、商業店舗を確保するという計画が立てられたのです。

 しかし、本工事は総延長が728.9m、底張りまで4.5mの高さで、シートパイル打ちが必要な垂直床堀りをする工事が必要であったにも関わらず、川の両側は大型重機がやっと通れるくらいの道幅。さらに、そこで商売を営む店舗への補償や工期の問題もあり、初回の入札はどの業者も予定価格と大きく開きが出て不調。再入札も全員辞退という結果に終わります。その後、琉球政府と建設業界の間で話し合いが持たれましたが、USCAR(琉球政府の上部組織として米軍が設けた統治機構)により、予算と計画の変更は認められませんでした。琉球政府との交渉も行き詰まる中、当時の南洋土建社長、比嘉廣が手を挙げ随意契約を結びます。採算を度外視し、建設業界の面目にかけて請け負うことにしたのです。経営論としては正解ではなかったのしれませんが、工事は完了し、結果的に南洋土建の歴史的な実績のひとつとなりました。そこには、「この島のために、この島とともに」という沖縄の建設会社としての思いがあったのかもしれません。

 沖縄の発展とともに歩み、様々な建設工事を手掛けてきた私たち南洋土建ですが、私たちの事業は施設やインフラなどのハードを整備することだけが目的ではありません。それらを通して、安全で快適な暮らしを築いていくことを大切に考えています。もちろん、発注者様がいなければ建設業は成り立ちませんが、最終的には利用者様の満足が私たちの目標です。そのために、これからも厳しい品質管理と安全で確実な施工管理を行い、新しい技術を取り入れていきます。私たちの仕事が暮らしを豊かにし、自然災害などから人々守ることを誇りとして、これからも南洋土建はこの島を築き続けます。